ようこそ、釣りと月性の町 大畠観光協会大畠観光協会

月性について

将東游題壁二首
二十七年雲水身 又尋師友向三津
兒烏反哺應無日 忍別北堂垂白親
男児立志出郷関 学若無成不復還
埋骨何期墳墓地 人間到処有青山

まさにとうゆうせんとしてへきにだいすにしゅ
にじゅうひちねんうんすいのみ
またしゆうたずねてさんしんにむかう
じうはんぽまさにひなかるべし
わかるるにしのびんや ほくどうすいはくのしん
だんじこころざしをたててきょうかんをいづ
がくもしなるなくんばまたかえらず
ほねをうずむるなんぞきせんふんぼのち
じんかんいたるところせいざんあり

二十七歳になった今でも、学ぶことがたくさんあるので、大阪に向かうが、年をとった母親を残して出る自分を思うと、不孝の罪を感じずにはいられない。しかし、国を守る強い思いを止めることは難しく、男子たる者、一旦志を立てて故郷を出るからには、やり遂げるまでは帰らない決意である。故郷の墓地に執着しなくとも、世の中にはどこへ行っても骨を埋める墓地があるではないか、そこで充分である。
 
将東游題壁釈月性詩吟


月性の功績

清狂草堂外観
月性展示館の様子
清狂草堂室内

月性は「明治維新の礎を築いた人である」と言っても過言ではありません。月性は詩人であり、偉大な教育者であり、僧侶であり、思想家であり、文武両道の剣術家でもありました。また、尊王論、海防論、倒幕論を唱えた思想面での先覚者であったとも言えます。
尊王論を具現化したもののひとつが海防論です。日本は四方を海に囲まれていることから、海からの防備をしなければならないと訴えました。弱腰外交だった当時の幕府に対して倒幕論を唱え、吉田松陰も月性の考えに感化されて最終的には倒幕論に傾注し、松下村塾の門下生たちが実際の行動を起こして行くことになります。

長い間鎖国してきた日本に、欧米列強が市場改革を求めてくることに対する防御を大義として訴えることで、国民の士気をあげ、尊王論、海防論として具現化しました。
国を護ることを核とした著書「仏法護国論」は、一万ヶ所の寺に配られました。「内海杞憂」では、その実践的な面を訴え、「清狂吟稿」は、千編以上書いた詩をまとめたものです。「今世名家文鈔」は、篠崎小竹をはじめ、当時の関西における最も優れた儒者4人の文章を編纂した全8巻の大作で、当時のベストセラーとなりました。特に「護国論」と「清狂吟稿」は、松陰の遺書である「留魂録」において書き留められており、出版して後世に残すよう、松下村塾の門下生に指示をしています。

月性が唱えた「脳兵隊構想」は、海防五策などとも関連し、「身分に関係なく、一般庶民みんなが立ち上がろう」「国を護るためには全員が意識改革しなくてはならない」「武士だけなく、農民も一緒に戦おう」という考えを述べたもので、のちの高杉晋作が結成した奇兵隊の基となり、明治維新の土台を担うものでありました。月性はこういった考えを積極的に民衆に知らしめます。松陰は松下村塾を休講してまで、月性の講演を塾生たちに聴講させています。
月性は実践力と行動力を備えた人であるとともに、入手した情報は整理して、みんなわかりやすく説明しています。交流が広かったことで多方面に情報交換のネットワークを持っていました。

月性の存在意義は、万能な人材育成のため、例えていうと土を耕し、肥料を入れて種を撒き、苗としてしっかり育て上げたことにあるのではないでしょうか。結果として花を咲かせ、実をつけた月性や松陰の弟子たちは明治維新を成し遂げることになりました。
そういったことから、月性は「明治維新のルーツ」といえるのではないでしょうか。

※ 上記文章は、山口県教育委員会・公益財団法人山口県ひとづくり財団による第3回「平成の松下村塾」において月性立志の会会長西原光治さんが行われた講座内容の抜粋です。

月性ゆかりの場所

略年譜

年齢概要時代のできごと
文化14年(1817)母:尾上の実家、周防の国、現在の柳井市遠崎の妙円寺に生まれる
文政12年(1829)13歳西本願寺で得度を受ける
(※得度:仏門に入り僧になること)
吉田松陰生まれる
文保2年(1831)15歳恒遠醒窓の蔵春園に入塾
文保7年(1836)20歳坂井虎山の百千堂に入塾
不及の善定寺の精居寮に入る
村田清風の藩政改革が始まる
アヘン戦争
天保の改革が始まる
文保9年(1838)22歳村田清風の藩政改革が始まる
文保11年(1840)24歳アヘン戦争
文保12年(1841)25歳天保の改革が始まる
文保13年(1842)26歳恒遠醒窓の代講をする
文保14年(1843)27歳「男児志を立てて郷関を出づ」の立志の詩を残し、京阪へ旅立つ
篠崎小竹の梅花社に入り文章の研究をする
文保15年(1844)28歳叔父:龍護に伴われ超然と会い、交流関係がより広くなる
嘉永元年(1848)32歳柳井市遠崎に清狂草堂(時習館)を開塾
嘉永5年(1852)36歳妙円寺の第10世住職となる
秋良敦之助に伴われ村田清風を訪問
嘉永6年(1853)37歳年末から「内海杞憂」の執筆を始めるペリーの黒船来航
嘉永7年(1854)38歳日米和親条約の締結
密航事件により松陰は野山獄へ
安政2年(1855)39歳「封事草稿」を藩政府に呈する
月性と松陰の交流が始まる
「今世名家文鈔」の初版本が出る
安政の大地震
安政3年(1856)40歳本願寺の命で上洛し、「護法意見封事」を提出
安政4年(1857)41歳和歌山方面に向かう「南紀行日記」
安政5年(1858)42歳5月10日、萩に法談に向かう船中で発病し、妙円寺に戻り亡くなる日米修好通商条約の締結
安政の大獄